茨木市の歴史

大阪と京都の中間にある茨木市は古くから人が住んでいた地域であることが確認されています。1973年の大阪万博での開発中に弥生時代の大規模環濠集落の遺跡(東奈良遺跡)が発見され、高床式倉庫などの大型建物や多数の住居が見つかりました。茨木市は古墳群地帯でもあり、日本全国第21位の巨大古墳と言われている太田茶臼山古墳が市内にあります。

<p>平安時代になると茨木市北部を東西に走る西国街道の往来が盛んになりました。街道沿いの5つの宿場の真ん中にあり、江戸時代には参勤交代の際に大名が利用したとされる「郡山宿本陣(椿の本陣)」が国指定史跡として茨木市内に残っています。室町時代に建てられた茨木城は茨木市地域の繁栄の基礎になったと言われています。戦国時代のキリシタン大名・高山右近が高槻城主だった時、茨木市北部の千提寺や下音羽も治めており、「隠れキリシタンの里」として知られています。

明治時代に入ると、廃藩置県により茨木市地域は大阪府の管轄となり、明治31年に茨木村が町制を施行します。昭和23年には茨木町、三島村、春日村、玉櫛村の1町3村が合併して市制を施行しました。交通の便がよく産業や住宅都市に適した茨木市は、現在では大阪府で8番目に人口の多い都市にまで発展しています。