八尾市の歴史

東大阪市、柏原市と共に中河内地域を構成する八尾市は、旧「大和川」による肥沃な土地に恵まれ、弥生時代から耕作が行われていたと言われています。国の史跡にもなっている心合寺山古墳や高安千塚古墳群などから、多くの豪族が住む繁栄した土地であったことが伺えます。八尾は蘇我氏と聖徳太子の連合軍が物部守屋と戦った場所としても知られており、八尾市内にある大聖勝軍寺は勝利した聖徳太子が古戦場に建立したと言われています。

八尾市域は農業が盛んに行われていましたが、大和川の氾濫は当時の人々の悩みの種でもありました。人々の長年の請願により大和川の付け替えが行われたのは江戸時代のことです。その後の新田開発により木綿の生産が飛躍的に伸びると、八尾市でも「河内木綿」の栽培が盛んに行われるようになりました。やがて外国産の安価な木綿が輸入されるようになると河内木綿は姿を消し、八尾市は木綿栽培から歯ブラシ生産で知られるようになります。八尾市は東大阪市と共に高度な技術を誇る「ものづくりのまち」として発展するようになりました。

旧八尾町、龍華町、久宝寺村、大正村、西郡村の5つの町村が合併して八尾市が誕生したのは昭和23年のことです。当時の八尾市の人口は約6万5千人でした。大阪近郊のまちとして発展を続けた八尾市には、現在では人口約27万人が暮らしています。